身体を打つ音が鈍く聞こえる。剣戟のように高く響く音ではないから、周りには目立たないが。
実際に受けている当人達は、骨と肉の伝達で、体内に大きく響いていることだろう。
もう何時間になるだろうか。学校の屋上で、飽く事なく戦い続ける姿が二つ。
鞭を武器とする青年――ディーノは、離れた相手の腕に鞭を絡ませると、思い切り手繰り寄せた。
ウェイトの軽い少年はぐい、と引っ張られ、近づいた身体に蹴り上げたディーノの足が吸い込まれた。
…かのように見えたが、少年は寸前で体制を整え、腕を交差させて直撃を防いでいた。
そのまま少年の膝蹴りが伸ばされた足にくらいそうになり、ディーノは慌てて足を引き身体を離す。
数歩離れて一旦距離を置き、少年は追い打ちをかけてこない相手に、舌打ちをした。
「どうした?恭弥」
「僕は…、本気でやれって言ったはずだよ」
連撃が止まり訝しげに問うディーノに、恭弥は鋭い眼光を向け、唸るように言った。
不機嫌な声に、日頃から少年を知るものは恐れを抱くだろう。
しかしディーノに怯む様子はない。物怖じする事無く肩を竦める。
「やってるぜ?でなきゃとっくにやられてるだろーしな」
「相手を殺さないように加減するのが、あなたの本気?」
軽い口調で返す彼に、恭弥はうざそうに息をついてきつく睨みつけた。
ディーノはそれに困ったように頭をかく。
「確かに、殺ろうとしてるわけじゃ、ねぇからなぁ…」そう言うディーノに、恭弥は、
「ふざけないでくれる?」と、武器を構え直した。
殺気を溢れさせる相手にディーノは苦笑しつつ、自分も獲物を構えた。
「でも、そのオレに勝てないんだぜ?本気でやりたきゃ、もっと強くなれよ、恭弥」
「言われなくても、すぐに咬み殺してあげるよ…っ!」
鋭く言い放ち、気を満たした恭弥が踏み込んで。いつ終わるとも知れない戦いがまた、再開された。
*
「はー…、今日はやり過ぎちまったかな」
疲れた溜息を気だるげに吐いて、ディーノは座り込む。
数歩離れた先には倒れている恭弥が居た。身動き一つしない事から、どうやら意識をなくしているらしい。
戦いのさなかに打ち負かしたわけではない。
頃合を見計らって終わりを告げた途端、倒れこんでしまったのだ。
それだけぎりぎりの状態でありながら、途中で意識を飛ばさない執念は感嘆に値する。
「傷が絶えねぇな、ボス」
控えていた部下のロマーリオが、恭弥の手当てをしながら視線を向けた。
いつもは応急処置もさせない彼だが、意識のない今はもちろん抵抗はない。
よほど疲れているのか、触れられていても目が覚めないようだ。
「そろそろキツくなってきたぜ。最近、本気で殺っちまいそーになる」
自分は渡されたタオルで汗と血を拭きながら、ロマーリオに苦笑交じりで返した。
本気でやっているとはいえ、殺意があるわけじゃない。
当然、致命傷になるような攻撃は避けていた。それをさっき恭弥に指摘されたわけだが。
しかし近頃、恭弥の殺気に流されそうになる時がある。
この訓練を始めてからほんの数日だというのに、彼の成長は目覚しく、気を抜くと本当に殺されかねない。
その気迫に、今まで修羅場をくぐってきた経験が、つい急所を狙ってしまいそうになるのだ。
恭弥にしてみれば、それこそ望むところなのだろうが。
困ったように言う様子に、ロマーリオは「たいしたガキだな」と肩を竦めた。
ディーノも「ああ」と肯定して、天を仰ぐ。
「あと3年…、いや1年もしたら、オレなんて相手じゃなくなるかもな」
「何言ってんだボス、あんたは今のまま変わらねぇつもりなのかよ」
未来に思いを馳せるように空を見つめる彼に、笑い混じりでロマーリオは答えた。
ディーノはきょとん…と目を瞬かせた。顔を戻して数秒、彼と視線を合わせる。
そして次の瞬間、吹き出して愉快そうに笑った。
「…はは!オレもまだまだ成長途中って事か。恭弥の相手はオレにとっても修行って事だな」
笑って頭をかく青年に、ロマーリオもつられて笑顔で見返し、頷いた。
有能な部下は、話しながらもてきぱきと応急処置を終え、立ち上がる。
「手当てが終わったが、こいつどうするんだ?」
「病院連れてくと怒るだろうからな、応接室に運んでやってくれ」
「わかった。次はあんたの手当てだぜ、ボス」
「ああ」
ディーノは素直に頷くと、近づいたロマーリオにタオルを手渡した。
*
すっかり薄暗くなった部屋で、恭弥は静かに目を覚ました。
数度、瞬きをした瞬間に「起きたか?」と、声がかかる。
向かいのソファに座っているらしい青年の声だ。
僅かに身じろぎしただけだったのに、目ざとい。じっと見ていたのだろうか。
「…ここは――、あぁ…応接室…」
「そうだ。お前の家は知らねーからな」
視線だけを動かして場所を問おうとしたが、見慣れた天井ですぐに気づいた。
恭弥は身体を起こすと、慣れたソファに深く身体を沈ませ、ちらりと視線を上げた。
向かいに座っているディーノに「それで?」と目を細める。
「何であなたが居るの」
横柄に言う態度に、ディーノはやれやれ…と苦笑した。
眠っている時は年相応のあどけない少年の顔だったのに、起きた途端にこれだ。
(全く可愛げのない生徒を持っちまったもんだ…)
ディーノは心中でぼやきしつつ、恭弥の問いに答える。
「意識がないのを放っておけないから、付き添ってたんだよ」
「要らないよ」
「ったく、そう言うなって。今日はやり過ぎたと思って、心配してるんだぜ?」
「要らないお世話だよ」
取り付く島もなく、淡々と答える恭弥に、ディーノは肩を落として、「お、お前なぁー…」と非難めいた声を出した。
こういうやりとりは最初からではあったが、ここ数日も全く変わる様子がなく、さすがのディーノもめげそうになる。
愛想良くしろとは言わないが、せめて会話といえるコミュニケーションくらいとってくれないものか。
未だ電気をつけていないため、恭弥の表情は見えないが、どうせ仏頂面しているんだろう。
ため息をついて、それきり言葉の止まった話を「…ま、いいけどよ」と終わらせた。
リボーンですら“問題児”という彼と、簡単に打ち解けれるはずがないのだ。
(気長に行くしかないよなぁ…)
ディーノは気持ちを切り替えると、大きく伸びをして、欠伸をかみ殺す。
気を抜いたら一気に連日の疲れが出た気がする。できるなら少し、休みたい所だが…。
「…お前、一人で帰れるか?オレは少し、ここで休ませて欲しいんだが」
欠伸交じりに、疲れた様子で言うディーノに、恭弥は視線を上げて眉を寄せる。
「……ここで寝ていくつもり?」
不機嫌を隠さない低い声は予想通りのもの。しかし、ディーノは構わず、ソファに深く身体を沈ませた。
寝ている恭弥を見ていたらすっかり眠くなってしまったらしい。
ここんとこ寝不足だったから、どうにも我慢できそうにない。
学校のものにしては、ここのソファは上質で心地が良かった。
「仮眠程度、2時間でいいから貸してくれよ。ここは静かで、良く寝れそーなんだ」
「あなたは、あの取り巻き連中と居た方が良いんじゃないの」
「あぁ…いつもは、な。ただ…ちょっと、今は、気ぃ抜けてんだ…」
言ってるうちにも眠気は深くなってくる。
もし本気で嫌なら、殴りかかってくるんだろうな。
その場合はさすがに目が覚めるし、そうしたら諦めて帰ればいい。
でもこれで、見逃してくれるなら。少しはオレも、恭弥にとって――…
そんな事を考えているうちに、思考はとろとろと落ち始めていた。
静かになってしまった青年に目を向けて
「許可した覚えはないんだけど…」
と、ため息交じりの恭弥の声が、部屋に残された。
*
よほど疲れていたのか。話している間に眠り込んでしまった相手に軽く息をついた。
殴って起こして追い出す事もできるが…
恭弥はちらりと視線を上げて、まどろみ始めているディーノを見るが。
さんざん戦って疲れていた事もあって、面倒くさい…と、放っておく事にした。
数日前に突然現れたこの男は、赤ん坊の古い知人だと言った。
あの赤ん坊とは、たった一度、打撃を交わしただけだが、その瞬間に悟った。
身のこなしからわかる。見かけによらず、素晴らしく強いはずだ。
戦いたいのは山々だが、相手にその気がないらしく、何度もはぐらかされている。
その彼の知人ならば、この金髪の青年は強いんだろうと思った。
確かにその通りではあった。負けてはいない。だが、勝つこともできない。
ここ数日で何時間やりあったかわからないが、決定的な決着がつかないのだ。
圧倒して咬み殺して、すぐに終わらせるつもりだったのに。
しかも相手は、自分を訓練しているつもりらしい。連日飽きずに、自分の前に来るのだ。
この状態ではやめる事もできない。強制の修行なんてごめんだったが。
勝敗がつかない相手が来る以上、戦わずにはいられない。
(それだけじゃない…)
この男と戦っている間に、確かに自覚している事がある。
自分の力を本気でぶつけられる相手。全力で戦い続けられる相手に。
身震いするほどの昂揚を感じていた。楽しくて仕方が無い、こんな事は初めてだ。
この青年らには何らかの思惑があるようだったが、そんな事はどうでも良かった。
それに乗る事でこの戦いの時間が在るのなら、悪くは無いとさえ思える。
ただ一つだけ、不満がある。
訓練だとか、指輪がどうとかいう事は自分には関係ない。
誰であろうと自分は殺すつもりでやる。手加減などはしないのは当然だ。
しかしこの男は違う。確かに攻撃に容赦はない、だが…殺気がないのだ。
致命傷になる急所に入りそうになった時、僅かに加減するのがわかる。
どうしたら…、本気になる?
恭弥はソファから腰を上げると、今ではすっかり眠り込んで、身じろぎ一つしない青年の前に立った。
近寄っても気付かない。自分がこうして居るのにずいぶんと無防備な事だ。
この状態で攻撃されるとは思ってないのだろうか。
そう言えば、こうして二人きりで相対するのは初めてだ。
この男の側には常に黒スーツの奴が居る。
いつも飽きもせずに、二人の戦いを眺めているのだ。その姿は今は居ない。
だからなのか、知らないが。雰囲気が違う気がしていた。
今なら簡単に、咬み殺せてしまえそうだ。
恭弥は音も立てず片膝を床につけ、仰向けに晒されたディーノの首元に手を伸ばす。
つ…、と上から下に指を伝わせる。さすがに何かを感じ取ったのか、ディーノの表情が曇った。
しかし起きる気配はない。このまま、両手を添えて、力をこめてしまえば―――…
恭弥は目を閉じると、軽く息をついた。自分は別に、ただ殺したいわけじゃない。
戦って、跪かせて、屈服させたいのだ。
自分の力で圧倒して…咬み殺す…それでなくては意味がない。
その為だけだ。今、ここで手を下さないのは。
ディーノはまた、気持ち良さそうに眠っている。
それをつまらなそうに細目で見て、手を離した。
(でも、今の表情は、退屈しないかも知れないね)
一瞬見せた表情。眉を寄せた、嫌そうな顔。
痛みを耐える時に歪ませる表情に、少し似ている気がする。
恭弥は再度ディーノに手を伸ばすと、首筋を指先でなぞらせていった。
今度は意図的に。擽るような微妙な加減をもって。
すると、また同じように不快そうに眉を寄せ、逃げるように首を動かした。
なるほど…、確かにこの“行為”は。擬似的なものが見れるかも知れない。
恭弥の行動理由は、そう思い立つだけで成り立たった。
状況や性別に逡巡するような神経は持ち合わせていない。
恭弥は立ち上がると、余っているソファの端に座り、間抜けた顔で眠るディーノを見下ろす。
退屈しのぎにはなりそうだ。口端を吊り上げると未だ起きようとしない身体に、触れた。