人生は何が起こるかわからない。
自慢じゃないが今まで色々な経験をしてきた。いわゆる『普通』と言われる生活ではなかった。
数々の修羅場を潜り抜ける度に成長もして、今では些細な事では動じなくなっていた。
それなのに、今直面している事態はディーノの心拍数を激しく乱している。
たかが自分の教え子が、己を組み敷いて見下ろしているだけだ。
例えばこれが屋上で手合わせでもしている最中だったなら、躊躇なく跳ね除けていただろう。
問題はここが二人きりの応接室で、ソファの上だと言うこと。
「恭弥ー、オレにはその気はないって言ってんだろ?」
長年で培った表情を隠す術のおかげで顔には出ていないし、声も動揺は窺えないはず。
その証拠に、見下ろす恭弥の表情は苦く不機嫌だ。
「だったら僕の前で転寝なんてしない事だ」
ディーノの答えを聞いても、恭弥は体勢を解こうとはしなかった。
ソファに寝転んでいた自分に跨り、上から両手を押さえつける重さは出会った頃よりも成長していて強い。
しかしまだ体格はディーノの方が上で力もあるから、跳ね除けられない程ではない。
足で蹴り飛ばすか、それとも力任せに横に倒すか。
どちらが怪我をさせないだろう…なんて甘い事を考えていると、恭弥の顔が覆いかぶさってきて、唇が触れた。
「……っん…」
進入してくる舌にディーノの眉根が寄せられる。
ただ蠢くだけの湿った感触は技巧も何もない拙いキスだったけれど。
ざらざらと擦り付けられる柔らかさの相手が彼であると言う事実に鼻腔から吐息が漏れた。
(いけねぇ…)
思わずそのまま瞳を閉じそうになって、は…っと気づいたディーノは力を混めて思い切り横に身体を倒した。
キスに気をとられていたのか押さえる力は緩んでいて身体は容易に退かされた。
しかし、ソファという狭い不安定な場所でそんな事をすれば、当然そのまま床に転がり落ちる。無論二人とも。
上に居た恭弥は反動で大きく転がって背がローテーブルに当たり、ガタンッ…と派手な音を立たせた。
「ぅ…っ」
「だ、大丈夫か?」
思わず呻く恭弥に慌ててディーノは起き上がり背を撫でようとするが、寸前で顔を顰めたままの恭弥の手で払われた。
勢い良く弾かれた手が所在なげに宙を彷徨い、驚愕に琥珀の瞳が見開かれる。
自分を咎める視線で強く睨まれて、蛇に睨まれた蛙のようにディーノの動きが止まった。
「その気がないなら不用意な事しないで」
数秒視線を合わせた後、押し殺した声で吐き捨てて恭弥は立ち上がる。
言われた言葉に宙に浮いていたディーノの指先がぴくりと震えた。
そのまま視線を落として言葉を止めていると、頭上から長い溜息が聞こえて。
「頭を冷やしてくる」と小さく囁き、恭弥は足早に応接室から出て行った。
カタン、と扉の閉まる音で、膝立ちだったディーノはその場に腰を下ろして、ソファにもたれた。
長く息を吐き頭を逸らしてソファに後頭部を預け、天井を見上げる。
長い前髪が横に流れて見える表情は曇ったままだ。
ディーノは持ち前の性格で、常に明るく笑顔を絶やさない印象を持たれる事が多いのだが。
こと恭弥の前ではそれが発揮出来ない。特にここ最近の恭弥の前では。
(初めに言われたのは、半年くらい経った時だったかな)
ディーノは始まりの時から今までの記憶をたどり脳裏に浮かべる。
リング戦の事や未来での事や、未来から帰って来てからも本当に色々な事があった。
1年くらいは怒涛の日々だったが、その度にディーノは綱吉や恭弥の助けとなる為に日本に赴いて出来る限りの事をしてきた。
恭弥は唯一の教え子だったし、特別可愛がっていたのも確かだったが、それ以上の感情はなかった。
そもそも対象外だったのだ。あの時、恭弥から告白なんてされなければ。
『あなたの事が、好きなんだと思う』
暫く戦いもなくて落ち着いた日々の合間に、ディーノが日本に訪れた時の事だ。
力が鈍っていないか確かめがてら、自分の運動も兼ねて恭弥と手合わせをして、ロマーリオが車を用意しに去った後。
急に真顔で、恭弥がそんな風に告げてきたのだ。
深い意味なんて塵ほども浮かばなかった。そう言う事を口に出すのが珍しいから驚いたけど、純粋に嬉しかったから。
『そりゃ、ありがとな。オレも恭弥が好きだぜ』
なんて笑顔で返したら。恭弥は数秒目を見開いた後、少しだけ口端を上げて困ったような微苦笑を浮かべていた。
そんな大人っぽい表情を見るのが初めてで視線が釘付けになっているうちに、恭弥の顔が近づいて…。
柔らかい感触が唇に押し付けられ、さらに目が見開かれる。
『…こっちの意味なんだけど、ね』
掠める程のキスが離れた後、恭弥は囁いて一瞬視線を交わした後、すぐに踵を返して屋上から立ち去って行った。
(ホントに驚いたんだよなぁ…、あん時は)
全く反応出来なかった自分を思い出して、ディーノは苦笑する。
あの後、ロマーリオが戻ってきても放心したままだったから心配された。
それからと言うもの、ディーノが来日して会いに来る度に、恭弥のアプローチは増していった。
普通に手合わせするのは良いとして、その後ソファで寛いでいると触れてきたりキスしようとしたり。
それに困って一度ちゃんと言った事もあった。
『お前は恋愛の対象にならないんだってば!』
『そう、なら対象になるようにすれば良いんだろ?』
すぐさま返答して薄く笑う相手に、ディーノは引きつったものだ。
恭弥の年頃の思い込みなんて、ただの若気の至りってやつで、すぐに飽きると思っていたのに。
どれだけかわしても恭弥は諦める事はなかった。
そんな事を繰り返し、繰り返し…すでに1年くらいが経っただろうか。
やっぱり変わらず、会う度に押し問答して何事もなく帰るのだけれど。
最近は少し、様子が違っているように思える。
表情に切なげな色が見えるようになってきたのだ。
思えばもう、出会ってから2年は過ぎて恭弥も高校生になっている。
子供特有の荒っぽさも少しずつ消え、身長も伸びたし顔つきも随分大人びた。
勢いだけだった行動に、ある種の感情が芽生えている事に気づいていた。
切なげに自分を見つめる視線に伝わってくるのは…。
(恭弥の…想い)
今日、隙を見せてしまったのは失態だったと思う。
最近は恭弥の変化に気づいていたから、気をつけていたのだ。
あぁいう雰囲気にならないように、予め予防線を引いていた。
しかし日頃の疲れのせいか、恭弥を待っている間に転寝したらしい。部屋に入ってきたのにも気づかなかった。
あれだけはっきり、拒絶したのは久しぶりだ。そして、恭弥がオレに咎める言葉を吐いたのは初めてだったろう。
(それでも、もう来るな、とは言わないんだよな…)
ディーノは頭を起こすと、顔にかかる髪をくしゃり…と握って頭垂れる。
恭弥はきっと気づいている。
今まで何度、恭弥の行動をかわして跳ね除けても、次に来日した時に必ず此処に訪れる意味を。
惹かれ始めている、オレの気持ちを。
それでいて、オレが1歩踏み出すのを待っているんだ。
色々なしがらみに縛られて迷っているオレが決断するのを待っている。
「よほど、恭弥のが潔い…」
小さく一人ごちて苦笑すると、ディーノは立ち上がって扉に向かう。
まっすぐに突き進めるのは、若さゆえか持ち前の性格か。
ディーノとて自分の意思だけで動く事が出来たならば、きっともう答えは出ている。
(待たせている理由にはならないけどな)
自嘲気味に口端を上げて嘆息すると、恐らく屋上に居るであろう恭弥のもとへ向かった。